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ピクシーというのが、彼の愛称です 

 Jリーグでは、ただいま2位の名古屋グランパスが勝ち点1差で首位の清水に肉薄しています。
 どこのチームが好きというほどのひいきチームはない別府ですが、実は今年の名古屋グランパスには注目しています。
 チームの戦力が整ってきた今シーズン、就任3年目のドラガン・ストイコビッチ監督の真価が問われているのかしらんと気になるのですよ。

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 別府がストイコビッチさんについて知っていることを、ちょっと資料を確認しながらまとめてみますね。時代の背景をまじえながら。

 1965年、セルビア(当時のユーゴスラビアの一部)で生まれる。
 国内リーグにて大活躍し、20代前半でサッカー選手としての名声を確立。
 1990年、ユーゴスラビア代表チームのキャプテンとしてイタリアワールドカップに出場して活躍。イビツァ・オシム監督(元日本代表監督)率いるこのチームはベスト8に進出するも、マラドーナのいたアルゼンチンにPK戦で敗れる。
 1991年ころから、スロベニア、マケドニア、クロアチアなどが次々とユーゴスラビアから独立し、ユーゴスラビアの解体が進む。
 1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争勃発(8月5日記事ご参照)
 この年、国連の制裁決議を受け、FIFA(国際サッカー連盟)はユーゴスラビアの国際大会からの締め出しを決定。92年欧州選手権に出場するためストックホルムに赴いていたストイコビッチらユーゴスラビア代表チームはピッチに立つことも許されないままに帰国。この大会はユーゴに代わって代替出場したデンマークが優勝。
 ユーゴスラビアは、サッカーのみならず、あらゆるスポーツで国際大会から消されてしまった時代です。
 1994年、Jリーグ名古屋グランパスに移籍。
 1995年、名古屋グランパスにアーセン・ベンゲル監督就任。この名将の下でストイコヴィッチは完全に復活し、Jリーグにおける大活躍が始まる。
 1996年、ユーゴスラビアにおいてコソボ紛争(アルバニア人による独立運動にかかわる紛争)始まる。
 1999年、コソボ紛争に介入したNATO軍によるユーゴスラビアへの空爆が行われる。
 2001年、現役引退。
 その後、ユーゴスラビアサッカー協会会長やレッドスター・ベオグラード会長などを経て、2008年より名古屋グランパス監督に就任。

 1990年ワールドカップの頃、多くの人々が「マラドーナの時代」の後には「ストイコビッチの時代」が来ると信じていましたが、予想は実現されませんでした。
 ベルリンの壁が崩壊した後、東側諸国の政治体制が崩壊し、民族運動が台頭した時代に、ユーゴスラビアの体制を維持しようとしていたセルビア勢力が、西側諸国から「旧体制の残滓」として敵視されたのは、ある意味、自然なことだったと思います。結果、旧ユーゴスラビア内で起こった多くの紛争の中で、ユーゴスラビア(セルビア)は欧米を中心とした世界によって「世界中の嫌われ者」の立場に追いやられていったのです。
 ストイコビッチ選手が、ヨーロッパを離れ、極東のサッカーリーグに移ってきたことには、そんな背景もあったわけですね。
 祖国が争いと戦火のただ中にあり、また国際社会の中でも最も困難な道のりを歩まねばならなかった時代と、自らの選手生命の全盛期が重なり合ってしまった悲劇でした。

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 1999年、Jリーグの試合中、ゴール後に、祖国ユーゴスラビアに対して行われた空爆について「NATOは空爆は止めろ」とアピールしているピクシーの姿です。
 祖国に住む両親や友人の安否を気遣う国際電話の向こうから、爆撃音が聞こえることもあったそうです。

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 記者会見を受けるピクシーは泣いていました。

 類まれな才能を持ちながら、その才能にふさわしいだけの栄冠を彼が得たとは思えません。
 でも、彼が選手生命を終えるまで7年の長きにわたって、この極東の国に留まり続け、そして今また、この国に帰ってきていることを思うとき、ピクシーは栄冠以上の何かを、この国で見つけることができたのだろうと思います。
 1990年代半ば以降、地球の裏側の日本まで最も頻繁に遠征してくれたヨーロッパの代表チームは間違いなくユーゴスラビア(セルビア)だと思います。ユーゴスラビアが世界中から敵対視され、強化試合の対戦相手にも事欠いたときにも、この国が、ピクシーの母国の代表チームとして彼らを温かく歓待してきた結果でしょう。
 私は、そのことをとても誇らしく思っています。

 オシム元日本代表監督とピクシーとは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の際に、それぞれが属する民族が対立しあったにもかかわらず、一貫して相互に深い敬意を払い続けています。そのことは2人が、それぞれ相手について語っていることを読んだり聞いたりすれば明らかです。
 オシムさんは、近著「考えよ!」の中で監督としてのピクシーについて、勇敢で、知性的で、哲学と信念という大切な資質を持ち、カリスマを備えたピクシーは、名古屋グランパスで「結果」を出せば「次の仕事への扉を開けるだろう」と語っています。

 日本とピクシーとの物語は、まだ半分しか語られていないのかもしれません。
 そして、その物語は後半こそが本編で、舞台は2018年か、2022年のワールドカップかも…
 そんなふうに考えるとワクワクしてきませんか?


 
 いつも応援をいただきましてありがとうございます。
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