真田丸の謎に混乱…
2016/05/07 Sat. 20:16 [興味津々]
現地に行く前に、出来るだけ事前の情報は集めておこうと思いました。
まずはこの図面です。

(広島市立中央図書館所蔵)
「諸国古城之図『摂津 真田丸』」です。
「歴史秘話ヒストリア」でも何度も引用されていましたが、真田丸跡地、特定の重要なカギとなっていたので、ウェブ上で見やすいものを探してみました。
あれ、テレビで見たのと何か違うぞ…

あ、テレビで紹介していたのは、図の一部で、全体はもっと大きなものだったのね。
えーと… なんだこれ?
砦の北側にひび割れた地面みたいなのが描かれていて、「浅田」とか「畑」とか書いてあるぞ。後は田んぼだったの?
緑色で描かれている部分は崖になっていたって説明されていたけど、堀は途中が途切れているところもあるし、だいたい裏の田んぼに通じる道が普通にあるって、大丈夫なのかなぁ。敵が入ってきそう。疑問?
よし、テレビでいろいろ解説してた人の本も読んでおこう。
これ。

「真田丸の謎 戦国時代を『城』で読み解く (NHK出版新書)」千田嘉博 著
なにせ今や、大抵の本は、KINDLE版をワンクリックで購入できる時代ですからね。
うんうん、読んでよかった。
疑問がスッキリ解けました。でも同時により謎なことも発生したけど。
疑問が解けたこと。
1.「諸国古城之図『摂津 真田丸』」は真田丸が存在した当時に作成されたものではなく、大阪冬の陣(1614年)が終わって真田丸が破壊されたあと数十年経ってから描かれたものでした。だから現地の図と言っても、真田丸当時の様子とは変わっているかもということらしいです。

2.真田丸の北側すぐは、大坂城の「惣構え」と呼ばれたお城の外縁を形成する防御ライン(堀、土塁、壁などによる)となっていて、真田丸の北側あたりの外堀は清水谷と呼ばれる(地名は現存しています)深い天然の谷を利用した幅200mにも及ぶ水のない空堀だったということでした。大阪冬の陣の和睦が成立した後、徳川方が埋め立ててしまったので、その後に田んぼとか作っていたのね。

「真田丸の謎 戦国時代を『城』で読み解く (NHK出版新書)」千田嘉博 著より引用

新たな疑問点。
1.「諸国古城之図『摂津 真田丸』」には砦の中に寺が描かれていて、テレビでもお寺の建物を利用して砦にしたって解説してたし、今も同じ場所にお寺があるって言ってたけど、今一つ腑に落ちないぞ。だって大阪冬の陣の後、砦は徹底的に破壊されたんじゃなかったっけ?今、この辺りに残っているお寺って、その後から建てられたんじゃないの?
と思って調べてみたら、現在、図の中で1番北の位置に建っているお寺「心眼寺」は、ウェブ上で「元和8年(1622年)、白牟和尚が戦国武将 真田幸村父子の冥福を祈り堂宇を建立したのを嚆矢(こうし)とする」って書いてありました。
南隣の「興徳寺」は、「大阪夏の陣(1615年)後、松平忠明が、大阪の町の発展と城の防衛線の再整備のため、市内に分散していた寺院を、当時の小橋村、高津村、天満村の3ヶ所に集めたとき、小橋村の現在地に『興徳寺』と寺号を改め、再建した」って書いてあるし…
2.というか、小橋村ってどこなの?
う~む、とにかく行ってみよう。
現場百回は刑事の基本なのだ!(刑事じゃないけど)
(つづく)

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今日の1曲は「アムステルダム」です。
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この記事に対するコメント
動画を見ました。
EIZOライブラリーのカラーマッチングセミナーを見てたら、別府葉子さんの歌声が動画で見れました。コンドルは飛んでいるや愛の讃歌、時代等々でした。ありがとうございました。
NoTitle
葉子さんは歴女だったんですね(笑)
NoTitle
別府さんがこのような歴史考察を披歴されるとは正直驚きでした。しかもブログ上で。
でも、興味深く拝見しています。楽しみにしてますよ~♪
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