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斑鳩の地に法隆寺を訪ねる その2 


 では法隆寺の写真などご紹介しながら、梅原猛氏の論じた法隆寺論の一部についてもご紹介してみます。

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 写真は左が金堂、右が五重塔、中央奥の方に写っているのが中門で、これら建造物はいずれも国宝に指定されています。

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 (中門、門の中央に柱という例外的な構造をもっています)

 梅原氏の説によれば、法隆寺は、聖徳太子の霊が怨霊となって祟りをなすことを恐れた藤原氏一族が、太子の霊を鎮め、またこれを封じるために再建したものとされています。
 不遇のうちに亡くなった英雄の怨霊が災いをなすことを恐れて、これを祭るという文化は日本の歴史の中で繰り返しみられます。菅原道真公、崇徳上皇、安徳天皇…etc.
 聖徳太子は、皇極2年(643年)その子、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が一族もろとも(再建前の)法隆寺五重塔で絶滅するという悲劇が起きています。

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 梅原氏は、山背大兄皇子一族を絶滅させた首謀者の1人が法隆寺に多額の寄進(食封)をしていることを見つけたときに、自説の着想を得たとされています。

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 (五重塔、金堂は、このような回廊の内側にあります)

 梅原氏の論は、その着想、発想に驚かされるという点もさることながら、もっとも感心してしまうのは、その論証の多様さです。繰り返し繰り返し角度を変え、別の事象を取り上げて、驚くほど多くの側面から自説の合理性を明らかにし、また自説を前提とすることで初めて、夥しいほどの事実が整合的に説明されていくことをもって自説の正当性を証明しようとします。まさに圧倒的な知の力を感じさせる作業なのです。

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 (金堂)

 この金堂の中にある釈迦三尊像と薬師如来像の光背の裏面には、それぞれの仏像が造られた由来などを記した銘文が記載されているそうなのですが、梅原氏は、これらの銘文を後世のねつ造としています。その論証の鮮やかさといったら、もう(笑)

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 (夢殿)

 そして聖徳太子の廟といわれている夢殿。太子が住んでいた斑鳩宮の跡地に建てられています。
 でも、建てられたのは天平11年(739年)、聖徳太子が亡くなられた推古30年(622年)から100年以上経ってからです。おかしいですよね。
 その2年前、確固たる地位を築いていた藤原氏の当時の支柱であった4兄弟が次々と亡くなるという事態が発生しているのです。怨霊の怒りを封じようとしたという説明はとても説得力をもっています。

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 長い歴史をもち、そして今も往時の姿をとどめる法隆寺。
 その地で、今も息づく法隆寺の姿を体感しつつ、その歴史に思いをはせることができました。最高の時間でしたよ。
 (なおつづく…つもり)



 
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